07日 9月 2025
マタイ 13:24-43 ハバクク3:17-19...
31日 8月 2025
「子どもは親からの愛から生まれて、愛されて育てられ行かされる」とか、「親は子より先に死ぬものだ」とか「親は子どもを愛するものだ」とか、そういったことは平和な日本で生きていて、恵まれた環境に生まれ育った人であるならば当たり前のように聞こえるかもしれません。しかし、世を見渡してみると、とても悲しいことに必ずしもこれらは当たり前とは言い難いようです。戦争や貧困にあえぐ地域では子が親より先に死ぬのが当たり前となり得てしまっていますし、場合によっては貧困故であったり家庭の事情であったりで親から愛を注がれずして生まれ、売られたり捨てられたりする子ども達がいるのも事実です。さらには、そのような経験を乗り越えて今なお過去の傷や苦しみを抱えて生きている人々がいるのも事実です。しかし、私たちは如何に恵まれていようがいまいが関係なく、もれなく全員が主なる神の愛から生まれて、そして愛に生きる者とされているのです。この日与えられた旧約聖書ではイサクに妻となるリベカが与えられます。これはアブラハムから続く約束がその子孫に渡って継承されるためのものでありましたが、それだけでなく母という愛を失ったイサクの個人的な悲しみを慰め、愛する妻を与え、愛に生きる者とし続けるためのものでもあったのです。また、新約聖書ではイエスが実の母や兄弟を蔑ろにするような場面が書かれますが、イエスの愛の福音がここで示していたのは、主を信じ、イエスを信じる者は誰でも実の家族やその愛と同じくらい大切な信仰の家族が、その愛が与えられるということを示しているのです。何よりも私たちは日々主の愛から生まれ、新しくされているではありませんか。主なる神を、イエスを信じる私たちはたとえ何があったとしても愛から生まれ愛に生きる者とされ続けているのです。主の愛と恵みは広く世界中に与えられるものではありますが、社会の歪や人の欲による妨げによって未だに苦しむ人々がいるのは事実です。どうか今この時も、苦しむ人々を私たちの信仰の家族に、その愛に迎え入れるために愛と平和を祈り続けましょう。
13日 7月 2025
マタイ6:22-34,イザヤ49:14-21...
06日 7月 2025
創世記2章4~10節、ルカ福音書 23章35~43節...
29日 6月 2025
御言葉を語るとき、どう伝えれば皆さんに届くかを考えるうえで、私は落語に注目しています。落語の寄席では、若手から始まり、二つ目、真打と続き、最後に最も格の高い真打がトリを務めます。けれど育成目的など特別な場では、真打が最初と最後に登場して場を整えることもあるのだそうです。この順序が、イエスの福音が宣べ伝えられる流れに重なるように思えました。まず神は御子イエスをこの世に遣わし、愛の福音を語らせ、イエスは十字架にかかり復活されて天に昇りました。そうして、そのあと、イエスは私たちに出番を託されたのです。「もしイエスが今も人の姿でいてくれたら」と思うこともあるかもしれません。しかし、イエスが天に昇られたのは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」というイエスの言葉のとおり、私たちを客席でただ聞いて頷くだけに留まらせず、実際に愛の福音を生き、広める舞台に立たせるためだったのではないでしょうか。これはイエスの信頼と期待の表れとも言えます。目に見えぬ神の愛を信じ、実践するのは難しいことです。けれど、だからこそイエスはこの世から退かれ、光を人々の前に輝かせる役割を私たちに委ねられたのではないでしょうか。イザヤ書にあるように、人の光(富や名声)は沈み欠けていくけれど、私たちに与えられた神の光は変わらず輝き続ける。マタイの福音書では「あなたがたは世の光である」とあります。私たちは、主から与えられた恵みの光を人々の前で輝かせるように招かれているのです。イエスがこの地から退いたのは、信頼と期待の表れ。世の光とされた私たちは、今この時代、この場所で、その光を輝かせる役目を担っているのです。だから今は、イエスの出番ではなく、私たちの出番。神の使途として、この地上で光を灯しながら、やがて再びイエスが現れるその時まで信仰と共に歩んでいきたいと思います。

さらに表示する