2026年6月28日朝礼拝 大賀幸一牧師 “あのような力が働いている”

 マルコ6:14~29、エステル4:10~17

  ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネを逮捕、監禁しながらも、ヨハネの話を聞くことを喜びとしています。洗礼者ヨハネに対して畏敬の念を持ち、恐れながらも彼を保護しています。神様が遣わされた正しい人、聖なる人として、ヨハネを見なしていたからです。ですから洗礼者ヨハネの話を聞き、教えを受けることを喜んでいたのです。それと同時に当惑も感じていました。何を当惑していたのでしょうか。洗礼者ヨハネが語る教えに対する当惑です。ヨハネの教えを喜びながらも、全面的にすべてを受け入れない当惑を感じていました。それでもヘロデは、ヨハネの教えに耳を傾けていました。ヨハネの教えを喜んでいたのです。私たちも、ヘロデ・アンティパスと変わらない部分があります。イエス様は、正しい聖なる方であると信じております。神様を畏れ、神様の遣わされたイエス様が教えれることを喜んで聞く私たちです。でも私たちの中でも、当惑が起こる場合があります。必ずしもすべてを受け入れられない私があるからです。受け入れられないどころか反発や信じられないということもあります。ところが、ヘロデは、洗礼者ヨハネを殺してしまいました。洗礼者ヨハネを失ってしまいます。喜んでいたのに、御言葉を聴いていたのに。私たちは、洗礼者ヨハネを通して神様の御言葉を喜んで聞くことが出来ます。それとは別の神様ではない声を聞くことも出来ます。どちらも聞くことが出来ます。そこに私たちの迷いがあります。私たちの問題があります。神様の声だけに聴き従い、それ以外の声は聞こえないのなら問題はなく、迷いもありません。しかし私たちはどちらも聞こえるのです。そして私たちはどちらを選ぶのでしょうか。洗礼者ヨハネを殺すことでしょうか。それとも洗礼者ヨハネを通して御言葉を喜ぶことでしょうか。私たちは、神様を信じ、神様にすべてを委ねています。そこにも当惑があります。しかし、私たちは神様の御言葉を聴きましょう。神様の御言葉を聴くことなくして、私たちに喜びがあるでしょうか。命が守られるでしょうか。私たちはこれからも神様の御言葉を喜んで聞いて、歩んで行きましょう。