マルコ10:32-45 哀歌3:15-33
イエス様が誰よりも先頭を歩いておられます。その姿を見ている弟子たちの思いは、“驚きと恐れ”でいっぱいでした。イエス様は、第3回目の受難予告を行われました。第1回目は、8:31以下、ペトロの信仰告白の直後です。第2回目は、9:30以下です。3回ということは、3回だけ行われたということではありません。イエス様は、何度も何度もご自分の死を弟子たちに予告されたのです。これから先に起こることはすべて避けられない出来事であるということです。すべて神様から出ている事柄、神様の計画なのだということです。イエス様を通してなされる神様の救いの業なのだということです。今回の第3回目の受難予告です。これまではまた違ったメッセージが込められています。異邦人、という言葉が出て来ました。第1、第2回には登場しなかった言葉です。ユダヤ人指導者たちから異邦人に引き渡される。死刑宣告の上でです。イエス様の殺害は、ユダヤ人から異邦人へと広げられました。誰もがイエス様の死と関係していることを表しています。この受難予告は、何度もイエス様から人間たちに対して示されました。すべての人間が対象です。逃れることのできる者、関係がないと言う者は誰もいません。だからこそすべての人間が、キリストの死と共にあり、キリストの命と共にあるのです。イエス様は、ご自分のことを、多くの人の身代金となるために来たのだと教えています。多くの人、というのはすべての人という意味です。ここでイエス様はご自分の命があなたがたを贖うためとはおっしゃっていません。贖うとは、負債があって奴隷になった人間をお金を支払って買い戻してくださることです。しかしイエス様は、負債があってもなくてもご自身の命を身代金として、すべての人間を救い出してくださったのです。私たちはが従うのは、イエス様であり、神様です。
