マルコ4:1~9,箴言2:1~9
マルコ福音書で、イエス様が教えられたのは、神様が蒔いているのは、神様の御言葉である、あります。まず最初に描かれているのが、道端に落ちて鳥に食べられてしまう種です。イエス様は、この種の状態を、御言葉を聴くけれども、すぐさま奪われてしまう人間を表現しているとおっしゃっています。なぜ失うかというと、その種の価値が分からないからです。人間がその価値を知っていたなら、自分自身でそれを求めて、それを探し求めるでしょう。ところが人間にはその価値が分からないし、見えていないから、道端に落ちたままなのです。2番目に登場するのが、根が浅く、十分に養分を吸い上げることが出来ず、遂にはこれ以上成長できなくなってしまう種です。根がなければ、安定することもありません。植えられたその場で成長して行くことも出来ません。結果は明らかです。いつしかその種は枯れて、無くなってしまうのです。たとえ話に登場する3番目の種は、茨の中に落ちてしまった種です。茨の中に落ちて、ふさがれてしまい、どこに新たなる成長の道筋を見つけ出すことが出来なくなってしまったのです。もうあきらめるしかありません。こうして考えてみますと、これまでに何度その大切な種を私たちは奪われ、失い、捨ててしまい、そしてうまく成長できずに枯らしてしまったことでしょうか。つまり神様が蒔いてくださる種が育つような私たちではないか、ということが改めてはっきりとして来ます。何度となく神様に与えられた種を失ってきた私たちですが、しかしそれでもなお、私たちは貴重な価値ある神様が蒔いてくださった種を預かっています。もちろん、神の子キリスト、イエス様によって与えられたものです。これは誰も奪えません。誰にもその成長は妨げられません。キリストの肉と血、キリストの命でできているのですから。私たちは、この価値ある神様とイエス様が蒔いてくださった種を、御言葉を、大事に育てて行きましょう。これは地上を離れて神様と生きる者となった時も、私たちにとって大変な価値あるものとして残り続けます。地上の私たちの旅路においても私たちを守り、輝き続けるのです。
