イザヤ書 51章4-11節 マルコによる福音書 13章21-37節
大切な人が苦しんでいるとき、その多くの場合はそのことを知らないまま過ごし、寄り添えなかった悲しみや後悔が後から生まれます。今の時代、大切な人たちと離れて暮らすことになる場合は少なくないです。大切な人の今を知り、寄り添い続けるには、私たちの力だけではどうしようもない場面があります。聖書には「泣く人と共に泣きなさい」とあります。しかし、主は私たちに出来無いことを強いるのではありません。イエスが「父を葬ってから従いたい」と願う弟子に「わたしに従いなさい」と言われた場面は、私たちの力の及び得ない所で必要なものは主が備えられるという慰めとしても受け取れる箇所です。寄り添えなかったとしても主は大切な人を捨て置かず、その人には寄り添う誰かを備えてくださいます。そして寄り添えなかった悲しみも主はご存じであり、私たちが大切な人の苦しみにいつでも寄り添える手段を私たちに示されています。それこそが祈ることです。「何事につけ、祈りと願いをささげ」とある通り、大切な人の過去・今・未来のために祈ることが第一の手段なのです。聖書は終末の時、救い主が来臨されるその時を誰も知らないと語ります。それでも私たちのその知らなさの中には神の正義の働きが確かにあります。「私の救いはとこしえに続き、恵みの業は絶えることはない」とイザヤ書が語る通りです。その上で主は私たちに「目を覚ましていなさい」と繰り返されます。目を覚ますということは主に委ね、祈り続けることです。大切な人の苦しみの時を知ることが出来ずとも祈ることが出来るように、終末のその時を知らずとも私たちが過去・今・未来に祈り続けることが目を覚ますということなのです。大切な人を苦しんでいるその時を私たちは知ることが出来るとは限りませんし、終末のその時は決して知ることが出来ません。しかし、そのような時に対しても私たちは「その時、わたしは祈ることができる」と信じ、あるいは「その時、わたしは祈りへと導かれている」と励ましを受け入れ、この信仰の道を歩んでいきたいと願います。
