ヨハネ福音書16:16~24,イザヤ65:23~25
私は兄と母との別れを経験しました。家族を送るのは初めてのことです。母のことは覚悟をしていましたが、兄の場合はそうではありませんでした。別れの時に、また会おうね、と兄に言いましたが、どのような再会があり得るでしょうか。ヨハネ福音書16章は、イエスと弟子たちとの別れが近づいていることを示します。イエスの御言葉から4つのことを学びましょう。第1は、弁護者です。弁護者、パラクレートス(ギリシャ語)は、悩める時に導きを与える存在、カウンセラーです。イエスは弁護者を私のもとに送り、私たちを一人ぼっちにはしておかないのです。第2は、悲しみが喜びに変わる、ということです。あなたがたは悲しむとは、神様を信じれば悩みがないというのではなく、事故も、失敗もあります。こどもを産む女性の苦しみは、一人の人間が生れた喜びを与えられます。苦しみは無意味ではありませんし、苦しみがなければ命はないのです。第3は、主と再び会うということです。ナイトスクープというテレビ番組で、おじいちゃんにどうしても会いたい女性が、自分の母におじいちゃんに変装してもらうというのがありました。あくまでもテレビの演出、変装ですが、感動がありました。これこそ家族との再会の喜びだと思いました。主との再会があることは恵みですが、主の前で私たちはどうなるのでしょうか。しかしいつかは主に会える、という可能性があるのです。第4は、祈りです。イエスとの間に祈りがあります。別れの時、イエスは祈ることを求め、祈りには制限がないことを教えてくれます。日本にも神社仏閣にも祈りがありますが、聖書の祈りとの間に違いがあります。何をもって祈るか、そして誰に祈るのか、ということです。イエスは父なる神に祈りなさい、と教えます。しかし私たちは天の父の愛にふさわしい者であるでしょうか。そこにイエスの名、これは私たちと神様とのきずなであり、特権です。このイエスの名をして私たちは何でも祈ることが出来ます。そこで私たちは祈りにおいて何を願うのかが大切です。主との再会を前に、私たちの日々の生き方が求められます。しばしの別れと再会の時を生きる。今日を誠実に生きて行きましょう。