2025年6月22日(日)朝礼拝 大賀幸一牧師“悔い改めにふさわしい実を”

エゼキエル18:25~32、マタイ3:1~12

  主の道は正しくない、と神の民たちは言ったようです。正しい、という言葉、英語訳聖書では、Fair、あるいはStraight、という言葉が使われています。聖書協会協同訳では、主の道は公正ではない、と訳しています。ただ単なる正しさを言っているのではないということが分かります。神様の愛されたユダヤ人たちの国が今行っている戦争が公正だとは思えません。もちろん他の国や民族においても同じことが言えます。そしてすべてのことを神様の責任にすることはできません。しかし神様はすべての命と関わってくださっていますから、その関りの中で、どうしてこのような不幸な、公正でない、正しくないことが許され続けているのか、と神様に訴えたい気持ちがあるのは、私たちも同じです。エゼキエル書には、正しくないのはお前たちの道なのではないのか、と逆に神様が私たち人間を訴えています。そして、すべての背きから立ち帰れ、と呼びかけられています。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ、と主なる神様は言われる。これが、神様から私たちへの御言葉、メッセージです。神様は預言者を派遣して、神様の御言葉を伝えました。その目的は、人間たちが神様の御言葉を聴いて、生きるため、死なないようにするためです。現代、預言者はいません。それは、教会が遣わされているからです。教会を通して、神様は人間に語っているのです。教会が無くなれば、神様が人間たちに語る場所が無くなってしまいます。教会は、現代の預言者として、神様のメッセージを人間に伝え続けなければなりません。それなのに人間世界は、神様を受け入れない。神様の御言葉を聴こうとしない。神様の愛を受け入れようとしない。洗礼者ヨハネは、悔い改めにふさわしい実を結ぶ必要があるのだ、と訴えいます。人間たちが本当に神様に立ち帰って、神様とつながり、生きる者となる事が必要なのです。神様の御言葉を聴いて生きること。神様の愛を受け留め生きること。洗礼者ヨハネを水によって洗礼を与え、人々に悔い改めの実を求めました。イエス様は、聖霊と火によって洗礼を与え、悔い改めの実を求めています。実りの収穫の時、脱穀の時、穀物はより分けられます。実の部分と殻の部分を。実の部分は蓄えられます。殻は火で焼かれます。次の収穫のための肥料として。殻が焼かれるのは裁きのためではありません。神様はおしゃっています。誰の死も私は望んでいない。私たちが生きる道を神様は望んでいるのです。