マタイ11:25-30 イザヤ6:1~8
今日、イエス様は、これらのことを知恵のある者や賢い者に隠して、幼子たちにお示しになりました、とおっしゃっています。文言が少し違うのは、聖書協会協同訳から引用したイエス様の言葉です。新共同訳では、幼子のようなものにお示しになった、とあるのです。しかし、本来は、幼子たちに示された、と書かれています。ようなものではないのです。イエス様が示されたことは、人間たちの知恵や知識とは反対のところに与えられました。つまり人間の知恵と知識では到達できないところにイエス様の示された事柄があるのです。こういう風に言いますと、キリスト教信仰というのは反知性主義なのか、と言われることがあります。知識や知恵を軽視し、知識が無意味なものだと断定しているのではと批判されるのです。そうではなくて、人間の知識、知恵では到達できないところにイエス様が、神様がおられると言っているのです。疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のところに来なさい、とイエス様はおっしゃいました。聖書協会協同訳は、すべて重荷を負って苦労している者は、となっています。この違いは、一生懸命頑張って疲れたなら、私のところに来なさい、というのではなく、今まさに重荷を負って苦労している真っ最中です。そうならば、私のもとに来なさい。休ませてあげよう、私も一緒に歩こうとおっしゃっています。今も重荷を負っている人々に、今も重荷を負い続けている人に呼びかけられているのです。イエス様のもとに辿り着いた人々は、イエス様の軛を負うことになります。イエス様を信じる、イエス様に従うという軛です。それ以外のものを何も負わせることがないのが、イエス様の軛です。そして、私に学びなさい、とも教えておられます。私たちが、私たちの世界が辿り着くべきところは、分断と選別によるものなのでしょうか。それとも、イエス様に迎えられ、イエス様の軛を負って歩んで行くことなのでしょうか。