マタイ27:32-56 哀歌5:15-22
ゴルゴタの丘はエルサレムの城壁の外、北西にあったと考えられています。人々の口から、イエス様に向けて侮蔑の言葉が溢れます。神の子なら自分を救え、十字架から降りて来い。実に人間たちのイエス様へ投げかける言葉のひどいことでしょうイエス様が十字架にかかってくださったから、人間たちは死から救われ、私たちは生かされているのです。イエス様が十字架から降りることは、本来十字架にかけられるべき人間自身がその十字架にかけられねばならないことを誰も認めようともしないし、知ろうとしないのです。イエス様が十字架にかけられた時、左右に同じく十字架にかけられた囚人たちがいました。この囚人たちもまた他の人間たち同じようにイエス様を侮辱したと記されています。しかしルカ福音書が伝えるように囚人の一人はイエス様と一緒に楽園に入ることを許されたことと矛盾するのではないでしょうか。十字架にかけられた囚人たちを思う時、彼らは強盗であり、十字架にかけられる大罪を犯した犯罪者なのです。その彼がイエス様を認める時、彼はイエス様と共に楽園に入ったのです。イエス様の処刑を担当した百人隊長や見張りをしていた者たちが、イエス様を、本当にこの人は神の子だった、と証言しています。彼らは何故そこに至ったのでしょうか。その人々は地震や色々の出来事見て非常に恐れて、と書かれているだけです。彼らは、十字架の上のイエス様の言葉を聴いたのではないでしょうか。そして十字架にかけられたイエス様を見たのではないでしょうか。祭司長たちや人々には最初からイエス様への憎しみと妬みがいっぱいで、イエス様の言葉もイエス様の姿も聞こえることも見ることもありません。しかし百人隊長たちはイエス様への憎しみはありません。そして、処刑人としてイエス様の処刑を担う中で、イエス様の言葉を、そしてイエス様の十字架にかけられた姿を見たのです。イエス様は最後の最後まで、人間たちを救うために語られ、生きてくださったのです。イエス・キリストの言葉こそが、人間に真実を認め、受け入れ、救いを与え、神様を信じることへと向かわせてくださるのです。