2024年11月3日 残りの木で自分のために神を造る 朝礼拝 大賀幸一牧師

イザヤ書44:9-17、マタイ23:25-36

  偶像を形作る者は皆無力である、とイザヤ書に記されています。人間はいつからから偶像を必要とするようになりました。その原因は、人間たちには、神様が見えないからです。神様の声が聞こえない。人間たちは神様の御声を聴くことが出来なくなったために、礼拝を献げるようになったと聖書には書かれています。人間が作り上げた神様というのはいかに意味のないものであるかが分かります。まず偶像を形作る者は皆無力である、とあります。つまり人間の側に力がなく、空虚なのです。11節には、神様を作った人間たちはもちろん人間に過ぎません。強い腕を振るって働いて神様を作ろうとするのですが、その人間はお腹が空けば力が無くなり、水も飲まなければ疲れてしまい働けなくなってしまいます。そして人間たちが一生懸命力を尽くして、知識を使って神様を作ろうとしたのですが、作られたのは何かというと、それは人間なのです。人間が作り上げた神様というのは、人間に似せて人間の美しさを形作ったものに過ぎないのだと示しています。人間たちは神様を作ろうとする時、木や石で神様を作ろうとします。ところがその木は人間が作り出したものではなく、自然が育ててくれるのを待つしかないのです。雨が降り、太陽が照らして木を育て、人間たちが造る神様の材料となるのです。また、人間たちは切り出して来た木の一部を暖房の材料にします。またその一部を食事のための調理の火として使います。そして残った一部を使って自分たちのための神様を作るのです。イザヤ書に描かれている神様を作ろうとする人間の姿は実に滑稽で、愚かで、虚しいものです。しかし私たち人間は、神様を見たいのです。それが本来の神様と人間との関係であるからです。神様との関係を失った人間がどんなに虚しい状態に置かれているか、私たちは知っています。私たちは神様とのつながりを取り戻したい。そのために私たちは、祈り、捧げ、礼拝を守り、神様とのつながりをなんとか保とうとして来たのです。そして、神と人とのつながりを取り戻し、永遠にこのつながりを保ち続けてくださる方、イエス・キリストが、私たちと共にいてください。