ヨブ記42章1-6節 ヨハネによる福音書11章28-44節
ラザロの姉、マルタそしてマリアは、イエス様にこう言っています。あなたがここにいてくださったら私の兄弟は死ななかったでしょう。姉妹たちはこぞって、イエス様に言い放ちます。あなたがここにいてくださらなかったからだ、と。4日前、マルタ、マリアは、ユダヤを離れていたイエス様のもとに、ラザロ危篤の知らせを伝えました。もしあの時、イエス様がすぐさま戻って来て、ここにいてくださっていたら、兄弟ラザロは死ななかったのではないでしょうか。なぜイエス様は、ここにいてくださらなかったのですか、と訴えられています。ラザロの死を悼んで、マルタ、マリアのもとを訪れていた人々もまた言いました。あのイエスでもラザロを死なないようにすることは出来なかったのか、と。ナザレのイエス様の力の限界を見たように。イエス様でもダメなのだという言葉が、人々の心から生れています。果たして、ラザロが死んだのは、イエス様がここにいなかったからなのでしょうか。それともイエス様の力の限界だからでしょうか。ラザロは死ぬべきではなかったのでしょうか。もし私たちがそう考えるのなら、私たちは大きな間違いをしています。私たちは死ぬべき者です。私たち人間は死ななければなりません。人間は、キリスト・イエス様と共に死ななければなりません。イエス様ご自身が私たちと共に死んでくださいます。私たちが古き人間のままであることから解放されるためです。そして新しき人間として、命として新たに生まれ、生きるためです。ラザロが死なないようにすることは、ラザロが神様と共に新しき命に生きることを妨げることです。それが私たちの願うことでしょうか。私たちは、愛する者たちが永久に、共に生きることを願っています。それならば、ラザロは死ななければなりません。イエス様と共に死に、イエス様と共に新たに生きるためです。