イエス様の言葉から、イエス様の与える水は、渇くことがない。それどころかイエス様の与える水を飲む者は、自らの体から水が湧き出て、流れ出る、と言います。サマリア人の女性にとってはそんな都合の良いものがあるならと飛びつきます。この水を飲む者は誰でも渇く、とのイエス様の言葉を誰よりも知っているのは外ならぬ私たち自身です。誰もが渇く、とは私たちの生活、人生そのものを言い当てている言葉です。気づいていても、何も変えられない私たちには、誰もが渇くことを自分たちの人生としてあきらめ、我慢するだけしかありません。それだけで私たちの人生は終わるのではなく、清らかな泉へとイエス様に導かれているのです。サマリア人たちは、ユダヤ人から純粋さを失ってしまったと差別されて来ましたが、イエス様は、あなたがたはこの山でも、エルサレムでもないところで神様を礼拝する時が来るとおしゃっています。民族や地域の壁から自由になって、神様を愛する、神様を礼拝する時が来ていることを教えています。そのためにイエス様は、確かにサマリア人女性と出会いましたし、多くのサマリア人たちを愛し、教えられました。イエス様は、霊と真理をもって礼拝する者が求められていること、いよいよその時が来たことを教えています。神様の霊を受けて、神様との深いつながりを感じながら、そして神様の真理をもって礼拝します。簡単に言えば、私たちの救い主、神の子キリストが神の真理です。イエス・キリストを知る事、信じることをもって神様を礼拝することなのです。私たちはもうすでにそうなっています。昔は、神様を礼拝することは、形式、定めがありました。今は神様の霊と真理によって礼拝するのです。私たちの命を、人生を、清らかな泉へと、永遠の命へと導くイエス様と共に、聖霊に教え、助けられて歩んで行きます。これからも私たちの体は渇きを覚えるでしょう。しかし私たちにはすでに、私たちの救い主イエス・キリストがおられ、私たちを愛し、導いてくださっています。