2025年9月14日 朝礼拝 大賀幸一牧師 「畑に隠された宝に似ている」

マタイ13:44-52  列王上3:4-15

弟子たちに向けてイエス様は、今日の3つの天の国のたとえ話をなさいました。群衆にではなく、弟子たち向けに語られたイエス様のたとえ話です。その最初のたとえ話は、畑に隠された宝のお話です。ある童話にこんなお話があります。ある農夫が死の時を迎えて、こどもたちに遺言を残しました。その遺言とは、畑に宝を隠したから探してごらん、というものです。こどもたちは一生懸命を畑のあちこちを掘って宝を探しましたが、一つも宝を探し当てられませんでした。こどもたちは、父親にだまされたのだと考えましたが、そうではありませんでした。その年の収穫は実に豊かな収穫が与えられたそうです。それは、実はこどもたちが畑をくまなく掘り返したものですから、良く耕された畑はいつもより多くの収穫を与えることになった、というお話です。畑を耕さないと見つけることのできない宝とは何でしょうか。それは、私たち自身のことであり、私たちの人生のことであったりするのではないでしょうか。私たち自身であるのなら、いつの間にか頑なになり、水も養分も失ってしまった私たち自身、再び耕す時が与えられ、今まで以上の実りをもたらすこととなるでしょう。あるいは、私たちの人生において、神様が隠し、用意してくださる宝、恵みを見つけ出して、私たちの人生は進められて来ました。神様が用意してくださった宝を見つけ出して、私たちの人生は希望を見つけ、喜びを与えられて、様々な困難を乗り越え、苦労の中に生き抜くための光を見い出して来たのではないでしょうか。イエス様は最後に弟子たちに、このたとえ話よく分かりましたかと尋ねています。弟子たちは分かったと答えています。分かったような分からないようなたとえ話ですが、今もまだ私たちのために隠された宝が、私たちの人生のために用意されているのです。今分からなくても、分かる時が用意されているのです。